2011年10月13日木曜日

The Help、フィリピンでは

学校の勉強と大学受験準備で忙しい娘が、高校最後のHigh School Play(ロミオとジュリエット、ミュージカル)に、メイキャップと小道具で関わっている。 

定時に迎えに行ってもその準備とやらでぜんぜんやってこない娘を、私は校内のカフェテリアで、読書をしながら待っている。 

今はアメリカ在住の友人ご推薦のThe Helpを読んでいる。半分くらい読んだところ。 

本当は映画を見たいのだけれど、このフィリピンでは上映しないような気がする。 

Helpはもちろん、メイドさんを意味して、この本では黒人のメイドさん。 

読み始めてすぐに、通いのメイドさんがゲスト用のお手洗いを使うことに、雇用者側の白人が異を唱える場面が出てくる。理由は白人と黒人とは持っている菌が違うから。「え?共用していたの?」と、つい思ってしまった私。そう、このフィリピンでは、メイドさんとはトイレを共用しない。シャワーも別。 

小説内のいろんな場面での雇用者とメイドさんの関係が、そのままこちらの現実の関係に当てはまり、そうか、アメリカでも同じだったのね、などと呑気に思ってしまったけど、こちらは、私のような外国人はともかくとして、同じフィリピン人の中でその関係が当てはまるから、いたたまれない。 

アメリカのように人種が違うわけではない。まぁ、フィリピン人といっても様々な混血がいるし、混血を嫌う中国系もいるから、同じ人種には見えないけれど。小説の背景である1960年代の南部では白人(お金持ち)VS黒人(貧しい)だが、こちらは、お金持ちVS貧困層だけ。人種の違いはなくても決して這い上がれない階級がここフィリピンには存在する。 

小説では、黒人メイドさんの現状に違和感を抱く白人女性がメイドさんたちに聞き取り調査をしてレポートを書こうと試みている。その最中に人種差別問題が大々的になってくるというあたりまで読み進んだ。 

もし、フィリピンで、この映画を上映したら、英語の映画を身に行く観客(つまり中流から富裕層)は、「ああ、アメリカにおける人種差別の映画ね」と簡単に思えるだろうか。いやな現実を見せつけられるのではないだろうか。 

今、NYで起きているような、所得格差解消を求めるような抗議行動は、アメリカが大好きなのに、この国には飛び火しないだろう。貧困層は世界で起こっていることに関心はないし、中流階級もあきらめ感が漂っていて、政治家から政府まで富裕層が握っているのだから、何も変わらないと思っているだろう。 

もうすぐ在13年となるこのフィリピンを、暮らしやすいとまで思うようになった私だけれど、このどうしようもない格差や貧困を目の当たりにすると、やるせなさが漂い、悲しくなる。もちろんその貧困の上に私たちの暮らしやすさも成り立っているのだけれど。 

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